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1944-1965         

 

1944年7月3日 (S19)南フランスのネラクで生れる。
1948(S23) 3-4
初めて”作曲”する。(口ずさんだメロディーを父親が書きとめる)
1949(S24) 4-5
ピアノを始める
1950(S25) 5-6
一家はパリに戻り、バスティー地区とレビュブリック地区の間に位置するオーベルカンフ通りに住む。アットメール・プリニエ教室とパリ国立音楽学院のソルフェージュ教室に通う。
1955(S30)10-11
パリ音楽院で平均年齢17才のカテゴリーのソルフェージュで1位を獲得。
13歳イギリスはDorsetにあるBournemouthの漁師宅を訪れ3ヶ月滞在。
1959(S34)14-15
ロックンロールと出会う。 プレンダ・リーの"I'm sorry"やプレスリーの"Don't be cruel"
ジュイイーの中学(セーヌ・エ・マルヌにある寄宿学校だが、彼はそこに数ヶ月しかいなかった)へ進み、次いでフィデの学校(モンソー公園と目と鼻の先、ヴァンティック通りにある)に入学、オラトリオの合唱隊に所属した。

1961 (S36) 16-17

S36(16-17)初めて受けたバカロレア(大学受験資格試験)の文学科に失敗。 

1962 (S37) 17-18

S37(17-18)大学受験資格試験に合格したが、兵役を勤める。 Montllucon(モリュソ)に配属されるが問題を起こしSt-Eulienに転属後され結局2年間の徴兵義務を7ヶ月で除隊。

1963 (S38) 18-19

S38(18-19)銀行の帳簿係、盲人基金の為の絵葉書のセールス、保険会社の出納係、火災保険のセールスの仕事を行う。 パレ・デ・スポールでレイ・チャールズを見て陶酔。  この頃、「愛の願い」を作曲。 9月23日、ピーターポール&マリーをオランピアで見る。

1964 (S39) 19-20

S39(19-20)銀行で一緒に働いていた友人にギターに打ち込む様に勧められHagstromの12弦ギターとマラブの教則本を入手。 3つの基礎コードを基に出来上がったのは「ノンノン人形」。 家を出てモンマルトンで生活をする。小さなバーでピアノを弾いたり、階段で歌った。 「Le Clandestin」というクラブで演奏。1965年の夏、コートダジュールまで南下していった。リヨンで立ち止まり、ボルドー方面へ寄り道し、そしてロンドンへ。いくつかのパブやクラブに出演しようと試みるがうまくいかなかった。

1965                     

1965 (S40) 20-21

S40(20-21)
モンマルトンを離れギターを片手に地方を横断。
10月、イギリスに渡る。 音楽出版社に”ノンノン人形”を持ち込むがうまくいかず、1ヶ月パリへ戻る。
11月、「ロコモティーヴ」アマチュアロックコンクールの予選が行われる。 20人以上がレコード会社との契約、現金1000フラン、そして広告会社からの数々の副賞を目指して参加。11月12日、ポルナレフはジェリー・リー・ルイスの「火の玉ロック」を自分なりに見事にアレンジして予選通過。

 

1966                     

1966 (S41) 21-22

ロルフ・マルボのところでスカウトをしていたジェラール・ウォーグを通じてヨーロッパ1とディスクAZのディレクター、ルシアン・モーリスと出会う。
2月12日、三人が勝ち残った「ロコモティーヴ」の最終審査が行われポルナレフが優勝する。 優勝者はエディ・バークレーのRockersというレコードと契約できるはずだったが、すでにルシアン・モーリスと契約していたため辞退する。
デビューシングルの準備が始まる。 ポルナレフは英語でレコーディングすることを希望したが、最終的にはフランス語で歌うことを譲歩した。3月初旬、レコーディングのためロンドンへ出発 
デンマーク・ストリートのサウザン・ミュージックのデモスタジオでレコーディングされる。
ベース:ビッグ・ジム・サリバン ギター:ジミー・ペイジ
ピアノ:レッグ・ゲスト ドラム:ボビー・グラハム
ルシアン・モーリスはロシア風の名前をアメリカ風に変えたらどうかと持ちかけるが拒否。 DISK AZと契約。
イギリスから戻った後はいつも通りLe Golf Drouotの舞台に現れた。金曜の「Tremplin」の夜だ。 彼はデビューシングルの歌と、クラシックロックの数曲を演奏した。彼にはまだ専属のグループがなく、だいたい一人で12弦ギターを弾いていた。   

 

5月、デビュー曲 "ノンノン人形" を収録したEP盤が発売される。

 7日、TV初出演(2CH VIENT DE PARAITRE)         

 25日、アルベール・レズネルの人気番組「Tete de bois et tendres annees」に出演。
 30日、Denise Glaserの番組「Discorama」ではビートニクの特集を組み、ポルナレフは"ノンノン人 形"を披露する。 "ノンノン人形"は数ヶ月で20万枚の売り上げを記録。


”愛の願い”録音のために再びロンドンに向かう。
「愛の願い」アンチーブの金薔薇祭で審査員特別賞を受賞

 

6月1日、2枚目のEP盤”愛の願い”が発売される。 

SL誌で7/15-8/15まで「愛の願い」トップ、同盤に収録された「君との愛がすべて」が第2位を記録する。

同曲の歌詞の内容が物議をかもし出す。

7月18日、テレビ番組「Douce France」、16日の「Jeunesse Oblige」に出演。
前座として8日からスタートしたクロード・フランソワのツアーに参加

8月、「時代の流れだ。私は今日、新しい歌手の存在を知った。それはミッシェル・ポルナレフ。」 
(ジョルジュ・ポンピ ドー) 
L'EXPRESS 1966年8月8日号

日本でもポルナレフがテイチク・レコードから発売される。
「ノンノン人形」

9サリュ・レ・コパン誌の撮影がアメリカで行われる。

10 "人生は星の流れ”、愛の証を、夜の鳥と一緒に、初めての愛 発売。
25日、ココ・ブリアヴァル、イブ・ローズ、Boby Lapointe,Casey Jones, アニー・フィリップ、The What's Newらとともにオランピアに出演。(BJサリバンがギタリストとして出演)

「ラヴ・ミー・プリーズ・ラヴ・ミー」

11 8日、ファーストアルバム発売

12その年活躍したアーティストが招待されるTV局主催大晦日のパーティに出席。ビュット・ショーモン・スタジオから生中継されたこ。

 

1967                     

1967 (S42) 22-23

2 "君は友達”(TA TA TA TA)、愛の終わりに、哀れなギタリストの告白、ミカエルへの哀歌 発売
"君は友達”の歌詞の一部”TA TA”の解釈によりポルナレフがホモの嫌疑をかけられる。
ドイツ、スイス、イタリアツアー

5 ”バラ色の心” 、ファットマダム、僕は蟻の王様、男は涙を流さない 発売

7国内ツアー

105日~22日、ダリダの前座としてオランピアに出演。

11 ”君の幸福と僕の悔恨” 、ミス。ブルージーンズ、愛はあの人の胸に 発売

 

1968                     

1968 (S43) 23-24

128日、テレビ番組「Studio 102」でサンディ・ショウと「愛の願い」を共演。

2 3日、番組「Tilt」で新曲「ラース家の舞踏会」、失われたマント、ショービジネス候補生、12章 が発表される。

7

セカンド・アルバム、「Volume 2」、EP盤”恋は人生の想い出” 偉大なる道徳感、門番の娘、オウルイ 発売

 

10 AZレーベルの発売権をもつ日本コロムビアよりシングル盤“ラヴ・ミー・プリーズ・ラヴ・ミー”が発売される。日本では1966年にテイチクからの発売に続くリバイバル発売となった。 日本コロムビアでは“MICHEL POLNAREFF”のカタカナ表記を「ミシェル・ポルナレフ」とした。

11"愛の別離” リンガディン、悲しきマリー、おかしなジョー発売。

124日、「Samedi et Cie」という番組でジャン・ルイ・バローの舞台劇“ラブレ”の音楽を担当することが発表される。
27日、「Quatre temps」でリンガディン、悲しきマリー、愛の別離を演奏。
31日、その年の人気アーティストが出演する番組「Surprise partie」に出演。

 

1969                      

1969 (S44) 24-25

2 悲しみの舞踏会
バラ色の心
ファーストアルバムが発売される。

32枚目のアルバム "VOLUME 2"、ポルナレフの初期のロマンの結晶として高く評価され、シャルル・クロ協会のディスク大賞を受ける。

5

渚の思い出 シェリーに口づけ

TOUS LES BATEAUX TOUS LES OISEAUX (渚の想い出)TOUT TOUT POUR MA CHERIE(シェリーに口づけ)
3.MUSIQUE DE RABELAIS (OVERTURE, DANSE DE GARGANTUA, THEME] DE LA MER(海),THEME DES OISEAUX)

28日、TV番組「Quatre temps」出演。
31日、「Chansons et Champions」に出演

うつりゆく日々
ピプレット

627日、「Tous en scene」がポルナレフを特集。
ポルナレフ作曲が使用されている映画「エロティッシモ」が公開される。 「つけまつげの女」

追わないで
可愛いシェリーのために

9 セカンドアルバム
1.バラ色の心 2.過ぎゆきし日々 3.蟻の王様 4.愛のしずくと太陽のしずく 5.タ・タ・タ・タ  6.この大げさな人間感情 1.悲しみの舞踏会 2.ピプレット   3.私の悔恨 4.ハゲ頭  5.ルイに寄せて

3枚目のアルバム 「LE DISQUES D'OR DES DISQUES D'OR」発売。
内容は60年代のポルナレフの集大成ともいえるベストアルバム的な構成。

11 ステキなランデブー
思い出のシンフォニー

12 12月3日から8日にかけてはブリュッセルのアンシエンヌ・ベルジックで公演を行う。
 オランピアでのコンサートのリハーサルをブールジュにある文化会館やパリのレカミエ劇場で行う。

1970                      

1970 (S45) 25-26

11月14日~27日、アランピア劇場にてグランド・ウディト(第2部の真打)として、初の本格的リサイタルを行う。

すてきなパリジェンヌ  

25日、テレビ番組「Paris Show」、
12日、「Music Hall Ce soir speciel Francois Deguelt」に出演。

3クロード・ルルーシュ・プロの製作による映画 "CA N'ARRIVE QU'AUX AUTRES"の音楽を依頼される。
11日、オランピア劇場で行われた「サン・ラファエル明日のNo1」で「Un train ce soir」「君との愛がすべて」「愛の願い」「ステキなランデブー」「渚の想い出」など10曲程歌う。
29日、テレビ番組「Tele Dimanche」に出演
今夜の列車
アベク・ニニ

527日、ペリグーからツアーが再開されるはずだったが突然の乱闘事件がこのリサイタルを中止に追い込み、そのためモネトーのヨンヌではコンサートの4日前若者達が暴動に走る騒ぎにまでなった。 

しあわせの足音
あき屋の中で

64日、パリ郊外のルイユ・マルメゾンで 一人の“ファン”が客席から舞台に上がり、ポルナレフに跳びかかるや顔のど真ん中を殴りつけた。
「あれは僕の人生の決定的な一打となった」
会場のすぐ隣の兵舎の連中の悪ふざけによるもの。

11日、予定されていたオランピア公演が中止となる。 ポルナレフはボーモン・シュル・オワーズの病院に6月初め静養のため入院する。

忘れじのグローリア
僕は男なんだよ

911日、ルシアン。モーリス自殺
12日、ヴァンセンヌの森のユマニテ祭にピンクフロイドと共にゲスト出演する。

10フォントネー・オ・ローズ(10月9日)シャラントン市営劇場(10日)コロンブ(14日)ナンテールのアマンディエ劇場(15日)ボヌイユ(16日)クラマール(17日)メゾン・アルフォール(18日、19日)ルヴァロア・ペレ(20日)ショワジー・ル・ロワ(21日)サントゥーアン(22日、23日)フォントネー・スー・ボワ(24日)バニュレ(27日)エピネイ・シュル・セーヌ(29日)

11ブラジル公演。リオ及びサンパウロ。
 ニューアルバムのレコーディングがロンドンのランズダウン・スタジオで開始される。 このセッションには「ブルーミング」のメンバーとアレンジャー兼サウンド・クリエーターとして知られるビル・シェファードが参加した。

1210日、パリのホテルジョルジュ・サンクでニューアルバムの発表を行う。
1970年は180万枚を売上げる。
(テレビ映画)
ジャン・ピエール・オーモンのテレビ映画「La pomme de son ?il」の音楽を担当する。

1971                      

1971 (S46) 26-27

1 6日、4枚目のアルバム「POLNAREFF'S」発表

2 愛のコレクション
愛の物語

3エディミッチェルのLP「Rock'n' roll」にピアノで参加。録音は1971年3月22日~4月1日、エルヴィル城のスタジオ。 Pneumonie rock et boogie woogie touxではコーラスにも加わっている。 7月10日~8月19日までのツアーにも一部共演。

5 フランスチームの師、ジャン・クロード・アルベールを介して空手に熱中するようになる
 ギリシャへ、モロッコへで休暇。

6 ギリシャにいるジョルジナへ
ロミオとジュリエットのように

729日、カオール、30日、ビアリッツ、31日、サン・ジャン・ド・リューズ、等で予定されていた公演はジェリーロールの代りに連れて来るはずだった女性4人のグループ(フィンランド人2人、スウェーデン人2人、ベースがMargit、ギターとアコーディオンがSirpa、ドラムがBirgita、ピアノとオルガンがIrène)の実力不足だったため。

8 

シェリーに口づけ
シングル&ファーストアルバム、 リニューアル発売。

924日、パレ・デ・スポールにおいてジョニー・アリディのコンサートにピアニストとしてこっそり紛れ込みジョニーファンを大いに驚かせた。
「ある日のライブで僕はジョニーに内緒で彼のピアニストと入れ替わった。ジョジョは大爆笑して“それ、パレ・デ・スポールでもやれるもんならやってみろよ”と言ったんだ」

10ジルベール・ベコー特集の番組で、「ロミオとジュリエットのように」を演奏し、ベコーと共に即興でピアノを弾いた。

ナディーヌ・トランティニャン脚本監督の映画“哀しみの終るとき”のサウンドトラックが発売される。 主演はカトリーヌ・ドヌーブとマルチェロ・マストロヤンニ。

日本のラジオ各局のチャートで "シェリーに口づけ" がトップにたった。 同曲は40万枚の大ヒットとなり、日本での "事実上のデビュー" を果たす。
レコードマンスリーでも第一位にランクされる。
「反射ミラーのサングラス、柔らかい栗色の髪をしたフレンチポップスの育ての親、ミッシェル・ポルナレフの”シェリーに口づけ”が第一位に」
21日、「愛の願い」シングルカット

11 セカンドアルバム
フレンチポップスのスーパースター発売

12ポルナレフがサントラを担当したジェラール・ウーリーの新作長編映画「大乱戦」が上映された。

ジョニー・アリディーのためにアリディー主演のロック・オペラ「ハムレット」の音楽を担当することが発表される。
美術担当は、サルバドール・ダリ。

 

1972                     

1972 (S47) 27-28

16日放送、テレビで、ミッシェル・パルボがディレクターのポルナレフ特集「A bout pourtant」の特番が放映される。

哀しみの終るとき

2 Disc AZは5枚目のアルバムになるLe Disque d’or Des Disques d’or②が発売になる
パリ・オペラ座でコンサートが開かれるとの発表があったが、結局実現に至らなかった。この魔法の場所で、彼は例によって実現不可能な改装工事を企てたため。 (後ろの主壁を取り壊し、ヘリコプターで登場すると言い 出した)

1日、「ポルナレフの世界/ミッシェル・ポルナレフ3」が日本で発売される。 71年にフランスで発売された 「POLNAREFF'S」と同じ内容。 

4 21日、日本でシングル盤“愛のコレクション”が発売される。

6「愛の休日」、つけぼくろ フランスで40万枚を越すセールスをあげる大ヒットを記録する。

11日、国内ツアーが始まる。 6弦ギター担当のジャック・メルシエを含むディナスティ・クリジスがバックバンドとなる。

日本でCBSソニーにおける4枚目のアルバム「ポルレフ・ナウ/ミッシェル・ポルナレフ4」が発売される。 内容は70年~71年のフランスにおけるヒッ ト曲を中心に集めた日本独自編集もの。

7 シングル“渚の想い出”が発売される。

910月にオランピア劇場で行われるコンサート「POLNAREVOLUTION」のために、ポルナレフ自身が女装して、裸のお尻を丸出しにしたポスターが製作されパリの街中にはりだされる。

愛の休日大ヒット

10【POLNAREVOLUTION 開幕
10月6日、オランピア劇場で 10月6日~22日(全17回)の日程で「POLNAREVOLUTION」 が開幕する。
天国への道  ジョブ

1111月2日、10月のオランピア劇場におけるコンサート、POLNAREVOLUTION を実況録音したライブ・アルバムが発売される。

初来日!!
15日、日本武道館で開かれた「第4回世界歌謡祭」 (17日、18日)にゲスト出演のため来日。 その他、19日に郵便貯金ホール、20日に新宿厚生年金ホールの2回、一般公演が行われた。

 

1973                      

1973 (S48) 28-29

パリ裁判所においてポルナレボリューションのポスター問題の判決が下り、60,000フランの罰金を科せられた。

1 忘れじのグローリア

212日、新しい作詞家ピエール・グロスとチュニジア南部にあるオアシス、ネフタへ立つ。高級ホテルに滞在し、共に仕事をした。数日後、パリへ戻った彼らは18の作品を仕上げていた。「ファンクラブの皆様へ」「悲しみのロマンス」「僕はロックンローラー」「ロージーからの手紙」「囚われのプリンス」「素敵な欲望」「ガラスの涙」などである。

ステージの構成も含めて開演の日まですべてを極秘のうちに運び、リハーサルの際にもスタッフ以外の人間を一人も入れなかった。 オランピア劇場でリハーサルが行われたときは、オランピアの支配人ブリューノ・コカトリックスが、劇場のまわりを20人ものガードマンに守らせたという。

35月22日、パリの壁はまたもポルナレフのポスターでうめ尽くされた。
タイトルは”POLNAREVE”(ポルナレーヴ)

 前回(POLNAREVOLUTION)のものよりさらにエスカレートした内容であったが、今回は当局からのクレームはなかった。

POLNAREVE 開幕
3月22日、4月13日までの3週間、オランピア劇場で「POLNAREVE」と題されたコンサートが開幕する。 

413日、3週間にわたるオランピアの最終ステージで、「わたしは今後2年間、フランスと訣別する」と発言する
* “愛の伝説”がフランスで発売される。I LOVE YOU BECAUSE(愛の伝説)、ROSY(ロージーからの手紙)

21日、前年11月の東京公演(20日、新宿厚生年金ホール)のライブ・レコーディング「ポルナレフ・ア・トー キョー
(POLNAREFF A TOKIO)が発売される。

5*パリのワシントン・スタジオで録音が続けられていたニューアルバムの製作が完了する。アレンジを担当したのはジャック・ダニエ。このレコーディングではストリングスはいっさい使用せず、ベース、ドラム、ギターとブラスを使って全トラックを録音した。製作にかかった費用は5万ドル。

31日、ロスアンジェルスに滞在中、母の死を知らされる。        

来日記念盤として、"POLNAREFF A TOKIO" の中から
火の玉ロック」(B面:トランペット)がシングル発売される。

6 6月:【2度目の来日
5日、前年と同じくディナスティー・クリジスを率いて2度目の来日。 日本におけるポルナレフの人気は決定的なものとなった。

8アメリカでの本格的デビューをめざし、ロスアンジェルスに向けて出発。 
「僕がフランスでデビューした頃のように、物乞いするのは覚悟の上でアメリカで再出発しようと思う。フランスにいては僕は井の中の蛙だ。ここでこれ以上制覇するものはない。ともかくここまでやって来たからには更に上を目指すべきだ。たとえ今のファンを失うことになっても、ファンの期待に背くほうがもっと悪い。それももうどっちでも良いんだが、僕は妥協する人間であったことはない」(第2チャンネルのニュース番組で語る)

ポルナレフから各種の権利を委任されていた財務顧問ベルナール・スノーは財産を横領し、私腹を肥やしていた。 その結果ポルナレフは約2年間税金を納めおらず税金未納で告訴さる。

9日本で「愛の伝説
がシングル発売される。

12 ポルナレフ革命

アニメ版映画,「三銃士」
"LES TROIS MOUSQUETAIRES"

1974                      

1974 (S49) 29-30

フランスで "TIBILI"「僕はロックンローラー」
"LA FILLE QUI REVE DE MOI"「ファンクラブの皆様へ」シングル発売

1 日本で「僕はロックンローラー」がシングル発売される。(B面:ポルナレフ革命)
大乱戦

214日、TBSラジオ番組、ショー・オブ・ザ・ワールドで日本で発売前のPOLNAREVOLUTIONライブが放送される。

4 21日、1972年10月のオランピア劇場におけるライブ・レコード 「POLNAREVOLUTION」が "熱狂のオランピア" のタイトルで日本で発売される。(内容は仏盤と同じ)、同日「悲しみのロマンス」がシングル発売される。(B面:ラース家の舞踏会/オランピア・ライブ)

520日~24日、27日、28日、NHK FMの番組、”サウンド・オフ・ポップス”で7日間に渡って、当時日本で発売されていたポルナレフのアルバムが全曲放送された。

6アルバム「POLNAREVE」が発表される。

9自叙伝 、"POLNAREFLEXION"がEDITIONS STOCKから出版される。
ミッシェル・ポルナレフ著
(協力:ジャン=ミッシェル)

10

 

日本での未発売曲を集めたアルバム 「ポルナコレクション」とシングル盤 「悲しきマリー」 が発売される。

 

1975                      

1975 (S50) 30-31

63度目の来日公演 バックバンドはイギリスのプログレバンド”ウオーリーズ”
6月23日福岡から7月11日仙台まで全15公演

9

 

アメリカ録音の全曲英語歌唱によるアルバムが発売になる。アメリカでは「僕は恋の救世主」、フランスでは「星空のステージ」がシングルカットされた。

1026日、ベルギー・ブリュッセルのフォレスト・ナシオナルでコンサートを行う。RTLラジオが中継し、パリからファンのための特別列車がチャーターされた。

12

 

ポルナレフUSAが発売になる。
青春の傷あと」がシングルカットされた。

 

1976-1979            

1976 (S51) 31-32

6マーゴヘミングウエイ主演アメリカ映画”LIPSTICK"の音楽を担当する。

”リップスティック”が発売される。 日本仕様のアルバムジャケットはポルナレフの写真が表であった。

1977 (S51) 32-33

フランス語歌唱によるシングル盤"Lettre A France"(哀しみのエトランゼ)が発売される。
哀しみのエトランゼ
僕のマドマゼル

日本で”哀しみのエトランゼ”が発売になる。

 

 

1978 (S52) 33-34

税金問題決着
フランス語のアルバム"COUCOU ME REVOILOU"が発売になる。
シングルカットは"UNE SIMPLE MELODIE"

1979 (S53) 34-35

アルバム「美しきロマンの復活」とシングル盤”愛のシンフォニー”発売。
 

6来日公演延期(指の怪我のため)

8 来日記念盤として”天使の遺言”がシングルカットされる。

4度目の来日

1980-1989            

1980 (S54) 35-36

1981 (S55) 36-37

アルバム、"BULLES"発売
"JE T'AIME"/"TAM TAM"がシングルカットされる。

"BULLES"(シャボンの中の青い恋)
日本ではこのアルバムjからのシングルカットはなかった。

1982 (S56) 37-38

"SHOW TELE 82 /PUBLIC"

1983 (S57) 38-39

トヨタ・ビスタのCFに”シェリーに口づけ"が使用されシングル・レコードが再発された。

1984 (S58) 39-40

サントラ盤、"LA VENGEANCE DU SERPENTPLUMES"発売 

1985 (S59) 40-41

アルバム、 "INCOGNITO"発売

1986 (S60) 41-42

IncognitoCD化。以後旧譜が順次CD化される。

1987 (S61) 42-43

1988 (S62) 43-44

1989 (S63)(H1) 44-45

"GOODBYE MARLOU"

1990-1999           

1990 (H2) 45-46

アルバム”カーマスートラ”発売

日本でカーナスートラがCDで発売される。

1991 (H3) 46-47

1992 (H4) 47-48

1993 (H5) 48-49

1994 (H6) 49-50

1995 (H7) 50-51

ROXY公演

1996 (H8) 51-52

5TVで"A LA RECHERCHE DE MICHEL POLNAREFF"放映。

"LIVE AT THE ROXY"発売。

1997 (H9) 52-53

"LE ROI DES FOURMIS"が出版される。
初期のアルバム3枚と1972年までの曲をほぼ完全収録した3枚組、"LES PREMIERES ANNEES"のCDが発売される。
(初期音源の発売権ががdisc AZからUniversalに移る)

1998 (H10) 53-54

ニュー・アルバムの製作がインターネット・HP、"polnaweb"で予告?される。

サッカー・ワールドカップ・フランス大会の日本サポーターの応援歌に「シェリーに口づけ」が選ばれる。「アレ!ジャポン!!」

1999 (H11) 54-55

JE REVE D7UN MONDEが発表される。

2月:日本盤が初のCD化。 アルバム「ポルナレフ革命」のCDが発売される。

11月:"a tribute to POLNARERR"の日本編集版が東芝EMIから発売される。

2000-                          

2000 (H12) 55-56

3ポルナレフ1~3 がCD化される。 ベスト版「シェリーに口づけ~ベスト・オブ・ミッシェル・ポルナレフ(Le meilleru de michel polnareff」発売。
(発売元:ポリドール、販売元:ユニバーサルミュージック)

2001 (H13) 56-57

1ポルナレフ4(ポルナレフ・ナウ)がようやくCD化される。”大乱戦”も日本仕様ジャケットで発売。 (発売元:ユニバーサルミュージック、販売元:ビクターエンタテイメント))

4Go Go Monago
(Hyunme du premier pentation organise par la Principaute de Monaco)

10ポルナレフUSA、美しきロマンの復活、シャボンの中の青い恋、アンコグニート、羽根の生えた蛇の逆襲の日本盤CDが発売される。

2002 (H14) 57-58

2003 (H15) 58-59

2004 (H16) 59-60

6写真集、LES PHOTOS COLLECTORS RACONTEES PAR FABIEN LECE UVRE MICHEL POLNAREFF"出版。

日本独自編集版ベスト"michel polnareff best"が発売される。

写真集"POLNAREFF MANIA"出版

自叙伝、Polnareff par Polnareffが出版される。

2005 (H17) 60-61

2006 (H18) 61-62

12 Ophelie Flagrant des Litsが発売される。

2007 (H19) 62-63

3長年の沈黙を破り3月2日、パリのベルシーでフランスツアー開始。

---つづく--------------------